トップページに戻る
ピコー先生を偲んで
-
ピコー先生の写真1
第6回AFJO(奈良にて)
-
輝しい一つのエポックが終わって、
これから新しい時代が始まる
七川歓次

 今年の初めに来たMerloz教授からの手紙は、ピコー先生の死がAFJOにとって大さな痛手であり、良きorganizerを実ったことを悔む文面であったが、日本の会員にとっては、すぐれたorganizer以上の人を亡くした思いであるだろう。

 ピコー先生はクルピエ教授らとともにAFJOの創設にかかわり、最初のフランス側会長として、1990年から1994年までAFJOの発展に盡力された。緻密な計画と並々ならぬ熱意をもって行動され、会長を退いてからもAFJOの最も大さな支えになってきた。 2年毎に開催されるAFJOに、時には100名近くになる日本の学会参加者を受け入れ、日本での開催時には、60〜80名のフランスからの参加者の滞在スケジュールや学会プログラムまでピコー先生を煩わすことが多かったのは、ピコー先生がAFJOの原動力となっている証拠である。

 コレール教授が会長をした1998年のリヨンでのAFJOは、私には殊の外印象的であった。学会における日本側からの発表がすぐれていたのみならず、討論が英語でなされたので、リラックスして皆よく喋っていて、横の席にいたピコー先生が“よかった、よかった”と真底嬉しそうで、私も同感であったが、会の成果を誰よりも気にしていた先生の面目がよく出ていた。会の後、大学の会場横の医学史博物舘に参加者が案内された。これも私には頗る興味がもたれたが、博物舘への道案内が少し手間どると、ピコー先生が軽い身のこなしで小走りで聞きにまわられるのを見ていて、まるで日本人のような気の使い方だと感心したりした。ピコー先生はその後日本の学会参加者全員をご自宅に招待された。おそらく日本の誰もがAFJOの忘れ難い印象を懐かれたものと思っている。

 AFJOのフランス人側役員は皆ピコー先生に近い人で、会の運営は順調であったが、一度だけうまく行かなかったことがあった。

 2000年の後半になって、翌年5月に大阪で第6回AFJOが予定されているにも拘らず、日本の事務局がフランス側と連絡がうまくとれなくなった。コレール会長以下役員のほとんどが辞任して、機能が停止状態になった。なかなか埒が明きそうにもないので、私は久し振りに、この年の11月にあったパリーでのSOFCOT(フランス整形外科学会)に出席して、フランス側の事情を確かめ、うまく運営してくれるように頼むことにした。クルピエ教授に会うと、“大丈夫、大丈夫、うまくするから”といつものように陽気な顔で言ってくれたが、細かいことはいわなかった。副会長であったコレール教授に、辞任を思いとどまるように、そう言ってほしいという日本側の要望もあって、小児の足の外傷の教育講演をしている部屋に会いに行った。コレール夫人が外の廊下で佇んでいたので要件を話すと、体調が悪いので私が付いてきたと言っていた。講演が終わってコレール教授に会うと、案の定心臓の調子がよくないということで引き受けてくれなかった。ピコー先生に会うと、コレール教授は住所がわからず、連絡がとれないということであった。宜しくといって帰ってきたが、ずっと返事はなく、日本の事務局の困惑は増すばかりであった。そこで私はパリーの友人が2001年3月にシンポジウムをするのに誘われていて、日本で用事があって行かない積りであったが、無理をして出かけることにした。それはクルピエ教授に会い、ついでリヨンに行ってピコー先生に会うことにしたからである。するとピコー先生から連絡があり、自分がパリーに行くから一緒にクルピエ先生に会おうということであった。但し偶然病院の前で出会ったということにしてほしいということであった。クルピエ先生の教授室で三人で話をして、新しい役員のリストを見せてもらい、その後病院の前のレストランで昼食をとることになった。AFJOのフランス側の次の会長に予定しているGazielly先生も呼んであるということであった。私にとっては懐かしいCochin病院前の小さなレストランには、今も若い医者達大勢で、私は一瞬タイムスリップしたような気持ちであったが、奥でGazielly先生が待っていた。

 レストランを出て、サン・ミツシェルの地下鉄の駅でピコー先生と別れた。これからすぐリヨンに帰るとのことであった。私はパリーに他の要件でもあるのかと思っていたら、AFJOの件だけで来られたらしい。相かわらず軽い身のこなしで、さっさと消えていった。私はその時、このような一途な人がAFJOを築きあげたのだと思わずにはおれなかった。

 我々がピコー先生に巡り会えたことは、極めて幸運であった。彼とともに、輝しい一つのエポックが終わった。そしてこれから新しい時代が始まるのだという思いで一杯である。

To Page Top▲
-
ピコ−先生を偲んで 小野村 敏信

 ピコー先生が亡くなられた。グルノーブルでの第7回AFJOのあと、参加者全員がリヨンにお招きを受け、楽しい一夕をピコー先生のお宅で過ごしたのは、ついこの間のことであったのに。

 私とピコー先生とのおつき合いは約30年ほどになる。そのころリヨンのセントロ・ド・マシューを尋ね、当時スタニヤラ先生が極めて重度の脊柱側彎ばかりを精力的に治療しておられるのをみて感動し、躊躇なく教室の若いひとを勉強に送ったが、スタニヤラ先生のあとを引き継がれたのがピコー先生であり、急速におつき合いが深まることになった。私の主催する日本の学会でお話していただいたこともあるが、AFJOを通してのことは皆様よくご存知のとおりである。この人なくしてはこの会の発足・運営はこのようにスムーズには運ばなかったかとも思う。

 私の立場として、これまでの日本の整形外科への先生のご貢献に触れなければならないが、長くなるので、2002年に先生を日整会の海外名誉会員に推挙するに当たり、理事会での検討の資料として提出したものを別に掲載する。日整会の海外名誉会員はここ10数年決められたことが無く、ピコー先生はこのことを非常に喜んでおられた。

 日本の整形外科医がリヨンにいる限り、ピコー先生が奥様とともに親身にお世話下さったという思い出と感謝は、われわれの世代だけでは無く現在の交換研修の世代のかたがたも等しく感じておられることであろう。

 慎んで先生のご冥福と、残られた奥様のご多幸をお祈りいたします。

(平成14年2月、名誉会員推薦にあたって、日整会理事会への資料)
1) 日仏間の整形外科学交流に関する貢献

シャルル・ピコー先生は以前より日本の整形外科に関するご関心ならびにご理解が深く、1990年に設立された日仏整形外科合同会議(AFJO)には、フランス側の代表としてその発足に大きな貢献をされました。パリで開かれた第1回合同会議では議長として80名をこえる日本側参加者を温かく迎えていただきました。以後本会は10年以上にわたり回を重ねておりますが、その内容も2年に1度の学術集会のみならず、青年整形外科医の交換研修、日仏整形外科医の合同研究へと発展してきました。このような形での国際交流は他の国との間では例をみないものであると考えております。ピコー先生はAFJOのフランス側の会長を4年間、名誉会長を4年間されたのち、現在は名誉会員となっておられますが、今日もなお日仏間の整形外科の交流に積極的にご尽力いただいています。

2)学術的な貢献に関して

フランス整形外科学会(SOFCOT)学術集会の会長を務められたピコー先生のご専門は関節外科、脊椎外科の領域ですが、これまで何回にもわたって来日され、整形外科関連学会あるいは各地の大学においてその成果を披露され、わが国の整形外科学の発展に大きく寄与されました、本年の第75回日整会学術集会(井上一会長)では招待講演をされる予定であり、また本年10月に青森市で行なわれる第10回日仏整形外科学会(SOFJO:フランスに関心を持つ整形外科医の日本での学会)においても招待講演をされることになっております。
また数年前から始められた日仏両国による整形外科合同研究についても常に助言や指導をされており、その成果はすでに論文としてまとめられ、高い評価を受けております。

3)青年整形外科医の日仏交換研修に関して

ピコー先生は1990年に始められた日仏の若手医師の交換研修制度に力を注がれ、この制度の事実上の責任者として、現在もフランス側の研修医の選抜や、日本側研修医の受入れ施設の斡旋に努力されています。これまでこの制度にフランス側から14名、日本から27名が参加しましたが、日本側の参加者がそれぞれ希望する専門領域についてグレードの高い病院で研修できたことは、フランス整形外科学会において信頼度の高いピコー先生のお人柄とご尽力によるところが大きいと思われます。また日本からの研修医の多くがピコー先生のご自宅にご招待を受けるなど、公私にわたりお世話になっています。

以上述べましたようにシャルル・ピコー先生は日本に心からの親近感をお持ちであり、今後とも日仏両国の懸け橋となっていただける方であると存じます。

To Page Top▲
-
シヤルルの想い出 福岡整形外科病院顧問
小林 晶

 シャルル −と何時も呼んでいた− が亡くなったという知らせほど、強い衝撃を受けたことはない。その数日前に、今年異常に多かったわが国の台風や、さらに追い打ちをかけた新潟中越地震の見舞いのメールを貫ったばかりだったのに!

 「お前はリヨンのことはよく知っているので話し易い」お互いtutoyerで話し始めたのは、識りあって間もなくの頃であった。あの暗い秋から冬にかけての空から、一挙に眩しい晩春の陽光がさした想いであった。

 彼の根からの親切な他人への優しい思いやり、思慮深いしかもユモーアを交えた話し方、機敏な行動などは、多くの彼に接した人から語られるであろうから、敢えてここでは繰り返さない。

 彼とは二人だけで二度旅行したことがある。最初はオリエ没後百年祭で、プロヴァンスのレ・ヴァンへリヨンから参加した時である。2000年6月のことで、南フランスは夏を思わせる暑さであった。彼の車のクーラーは故障して、車内の暑さも相当なものであった。レ・ヴァンまでの220kmの後半はプロヴァンス特有の石の家と石灰岩に富んだ山が続き、セザンヌの絵を見るような景色である。シャルルは少し廻り道をして、ヴァランス、モンテリマールを経由したのち、アルデーシュ峡谷(Gorges de l'Ardéche)をわざわざ見せてくれ、レ・ヴァンの3日間も汗をかきながら、きめ細かく村長以下の人々やフランス全土から参加した整形外科医の面々を紹介、土地の案内に気を遣ってくれた。東洋から唯一の参加者ということで、地元紙の記者に囲まれた私を、シャルルは例の軽妙酒脱な語り口で先ず紹介し、オリエの展示品の前まで連れてゆき、その前でインターピューの写真を取らせる配慮もしてくれた。

 フランス医学界の学閥は相当なもので、場合によってはわが国以上のものがある。パリ学派は当然一緒になり易いが、そのサークルの中にも私を連れてゆさ、くどいくらいにAFJOと私のことを紹介してくれた。

 人を蝕かせず、心配させず、気に入るように寛がせるというのが、彼の根本にあるもてなしのエスプリであった。

 二回目の二人の旅は2002年5月の九州の温泉巡りであった。その国を知るには、田舎に行き庶民の暮らしを経験した方が良い、というのが、私の海外旅行の信条であって、シャルルにも是非一端でもよいからどうかと勧めたのである。

 湯布院温泉では、和式族館に泊り、日本人がやるように裸で入湯し、浴衣で歩き和食をとるスタイルであった(写真 右)。彼は何の抵抗もなく、しきたり通りに振る舞って、お世辞無しに素朴で快適な環境を褒めてくれた。

 人吉でも球磨川沿いの和式族館に泊り、翌日の急流の川下りを楽しんでくれた。

ピコー先生と湯布院にて
大分湯布院温泉にて(2002年5月)

 人吉のような九州の涯に居ても、孫娘の土産が気になるらしく、人形を求めたい希望があった。こんな田舎に人形屋の存在をいぶかったが、立派な店を運よく見つけ、結局買ったのはフランス人形で、二人で大笑いをしたことであった。

 被の博物学への興味と豊富な知識は余り人に知られていない。目にする動植物の名前を必ずフランス語で教えてくれた。レ・ヴァンでは緑が多く、夾竹桃や菩提樹が至る所にあり、laurier-rose, tilleulと指差しつぶやく。人吉では球磨川の上を飛ぶ鳶をVoilá, milan! と何時までもその飛翔を眺めていた。土手を散歩して釣人がいると魚篭をみつめ、一々魚の名前を言うのであった。

 名もないような小さな昆虫などは、最も関心を引くらしく、libellule(とんぼ)が小さい時はdemoiselleと呼ばれるなども数えてくれた。

 この九州旅行の終わりに高速道で、スピード違反で私は捕まった。シャルルの心配は尋常ではなく、切り札として「この外人を空港まで送るのに時間が無く、スピードを出したのはそのせいだと言え」と方便まで用意してくれた。もちろん駄目であったが……。

 シャルルとの交流の思いでは尽きない。AFJOを何としてでも継続、発展させることが彼に村する報恩の途である。1990年の第1回AFJO会長の姿を偲んで(写真 下)、哀悼の意を彼と最愛の伴侶ジュリーに捧げたい。

ピコー先生の写真1990
第1回AFJO会長を務める在りし日のシャルル・ピコー
Paris, Palais, des Congrès (1990年11月)
To Page Top▲
-
ピコー先生の思い出 大阪医科大学整形外科
瀬本喜啓

 本会の名誉会員で、日本整形外科学会の名誉会員でもあるピコー先生が、11月21日フランス時間午後3時45分、胸膜の癌のため他界されました。

 昨年6月ごろから咳をされていて、胸膜の癌が発見されたあと化学療法を受けておられたそうです。奥様や嫁がれたお嬢様には、病状について「心配しなくてもよい」といつも元気にされていたとのことですが、11月初めの奥様のお父様の写真展で少しお疲れの様子だったとのことです。11月19日に呼吸困難のため入院され、2日後の21日に息を引き取られました。前日の夜は苦しまれたそうですが、夕方には静かに眠りにつかれたそうです。ご葬儀は11月26日にリヨン2区の11世紀に建てられたAinay教会で行われ、多くの友人の方々やご親戚の方に囲まれ、追悼のごミサが行われたそうです。在リヨン日本領事の青山氏も出席されたそうです。

 謹んでご冥福をお祈りすると共に、日仏整形外科学会創立以来、本会の発展のため献身的に貢献していただいたピコー先生に感謝と哀悼の意をささげます。安らかにお眠りください。

 ピコー先生に初めてお会いしたのは、1982年の10月でした。私は、当時側弯症で有名だったリヨンのマッシューセンターの整形外科医だったピコー先生のもとに、1年間の予定で留学生活を始めるところでした。先生のお部屋で初めてお会いした時、先生は私がフランスに来る前に山ほど書いた書類の何枚かを見ながら、どんなことを勉強したいかなどを尋ねられました。大変紳士的で色々と気使っていただき、自ら病院中を案内しながらスタッフに紹介していただきました。

 月曜日から金曜日まで、毎朝7時半から股関節の全置換術を1件行い、9時には手術を終え、看護婦さんが毎朝買って来るフランスパンにバターとジャムを塗って食べ、カフェオレを飲むのが日課でした。その後ハリントンロッドを用いた側弯症の手術を3時ごろまでには終え、そのあと外来や手術検討会を夕方まで行っていました。手術検討会では、まだ言葉の壁があった私に、「こんなとき日本ではどうしているのか」とよく聞かれました。毎日ピコー先生の傍で過ごしたことが、以後、私の疾患に対する基本的なものの考え方の大きな原点になったと思います。

 常勤の外科医はピコー先生一人で、私が行く前は医学部の5回生か6回生を助手にして手術をされていましたので、少しは手術のできた私が病院に研修に来たことで「大変助かったよ」と何年も後でおっしゃっていました。

 リヨンの人は保守的です。このように毎日一緒に仕事をしていましたが、ご自宅に呼んでいただいたのは半年もたってからでした。それまでスキーに連れていただいたことはありますが、ご自宅には呼んでいただけませんでした。紹介もなくまったく初対面の場合、リヨン人はなかなか自宅には招かないとのことです。自宅に招いていただけたということは、やっと知人の一端に加えていただいたということです。なかなか親密にはならないけれど、一度気を許したら一生の付き合いをするというのがリヨンの人なのだそうです。ピコー先生も典型的なリヨン人でした。

 日本に帰ってから20数年になりますが、こんなに深く、また家族ぐるみでお付き合いさせていただいたフランス人はピコー先生と奥様だけでした。

 日仏整形外科学会とフランス整形外科学会が合同で交換研修をしようということが決まり、日仏整形外科協議会(AFJO)が設立されました。ピコー先生はこの協議会の設立にフランス側代表として、多大な貢献をされました。この協議会のもと、毎年両国2名づつの青年整形外科医交換研修が始まったのは1990年のことでした。それから15年間で日仏合わせて49名の医師が交換研修プログラムにのっとり日仏両国で研修されました。当初この交換研修はお互いの生活習慣や経済状態の違いなどからさまざまな行き違いや誤解がありましたが、それを一つ一つ丁寧に解決し、特にフランス側の交換研修受け入れ責任者として多くの日本人の先生方をお世話していただきました。空港に出迎えていただいたり、ご自宅に招待していただいたり(初対面では考えられないことです)、趣味の狩猟につれていただいたりなど、本当に親身になってお世話くださいました。多くの先生方から日本側の事務局にお礼の言葉を頂いています。

 また、ピコー先生が1990年のフランス整形外科学会(SOFCOT)会長になられた時、日本側との合同会議を開催することとなり、第1回日仏整形外科合同会議(Réunion de l'AFJO)がSOFCOTの前日にパリで開催されることになりました。日本からの参加者はDéfanceの新凱旋門の最上階でのパーティーに招待され、本当に楽しく貴重な経験をさせていただきました。第2回AFJOは七川歓次先生のもとに京都で開催され、多くのフランス人医師とともにピコー先生ご夫妻も来日されました。以後、2年毎の合同会議には毎回ご出席になり、中心的な役割を果たしてこられました。本年5月に京都で開催される第8回AFJOにも奥様と二人で来日の準備をされていましたが病状が進行し、もうお目にかかれないこととなり残念でなりません。本会名誉会長の七川歓次先生はじめ、交換研修の責任者をされている小野村敏信会長、故菅野卓郎元副会長、小林晶副会長とも親交を深められ、先生方の渡仏に際してはいつも自宅やレストランでの食事などに招待されました。ピコー先生は、日仏間の整形外科の交流に積極的にご尽力いただいた先生でした。

 また学術的にもフランス整形外科学会の会長を務められ、関節外科、脊椎外科の領域で、これまで何回にもわたって来日され、整形外科関連学会あるいは各地の大学においてその成果を披露され、我が国の整形外科学の発展に大きく寄与されました。2002年の第75回日整会学術集会(井上一会長)では招待講演をされました。

 このことが日本整形外科学会でも評価され、2002年の日本整形外科学会において名誉会員に推薦されました。

 ピコー先生の思い出は公私を交えて数多くあります。先生は「名前で呼び合おう」とおっしゃっていただいていたのですが、年齢が離れている上に、社会的にも高い地位の先生に対して長い間どうしても「シャルル」とよべず「ムシュー・ピコー」と呼んでしまいました。そのたびに「ノン、シャルルと呼んでくれ」といって悲しい顔をされていました。ここ数年の間に、やっと「シャルル」と呼べるようになったところでした。

 昨年11月21日にジランさんからピコー先生がなくなられたと電話を頂いたときは、呆然としてしまいました。私たちだけでなく、奥様やお嬢様にも、ほとんど病状は知らされていなかったとのことです。知らせて悲しませたくなかったと最後におっしゃっていたそうです。数年前に心臓弁膜症のため手術をされたときも、「ちょっと入院してくる」程度の簡単な説明だけで、家族や周りの人たちも退院後に心臓の手術をしたと聞いてびっくりしていたくらいです。奥様に対してはとことん優しく、家事以外のことはほとんどすべてピコー先生がなさっていたとのことです。今回の入院前も、庭の木が伸びているので庭師に電話をしてから入院されたそうです。

 ピコー先生の存在が大きかった分、奥様はひどく落ち込まれています。昨年の12月30日にピコー先生のお墓参りに行ったとき、奥様はやつれ果てて全く放心状態で、話すたびに泣きくずれ、大変悲しい訪問でした。私の人生はシャルルと一緒に終わったとおっしゃられ、ほとんど外出することもなく、一人で家におられます。何とか立ち直って元気になられることをお祈りします。お墓はリヨンの市内にあり、土葬のためまだ墓石などが未完成のままでした。奥様は今年のAFJOを必ず成功させて欲しいとおっしゃっていました。

 本年のAFJOを成功させ、今後の日仏の交流をさらに発展させることが、ピコー先生に対する最大の供養になるものと信じています。

 ピコー先生のご冥福を心からお祈りするとともに、残された奥様の力になることができればと願っております。合掌。

第10回日仏整形外科学会 弘前にて 第5回AFJO リヨンにて
第10回日仏整形外科学会 弘前にて 第5回AFJO リヨンにて
ピコー先生宅にて ボルドーにて
ピコー先生宅にて ボルドーにて
To Page Top▲
-
ピコー先生の想い出
大阪府済生会中津病院
大橋弘嗣

 ピコー先生のご逝去、心よりご冥福を申し上げます。 日仏整形外科学会のお手伝いをさせていただいてから何人かのフランス人医師と顔を合わせるようになりました。中でもとりわけピコー先生は私たち日本人メンバーひとりひとりに対して心を配られ、私のようなものにまでよく声をかけていただきました。自分勝手ですが、いつの間にか私にとってはリヨンの頼れる父親的存在になっていました。フランス整形外科におけるピコー先生の立場を考えれば厚かましい話ですが、そう感じさせないところにピコー先生の人間としての偉大さがあったのだと思います。今になれば、ピコー先生にお世話になったことばかりが想い出されます。

 そのなかでも一番お世話になったのは、リヨンでの手術見学をお世話していただいた時です。渡仏前からスケジュールなどについて打ち合わせをしていましたが、そうこうするうちにフォアグラは食べられるかとか、カエルは食べられるか、カタツムリは食べられるかなど食事の打ち合わせに変わっていました。リヨンに到着すると空港まで向かえに来ていただき、そのままボージョレーのお母さんの家に招待していただきました。ここからリヨングルメツアーが始まりました。その後リヨンに滞在した3日間、つきっきりでお相手をしていただき、観光案内とともに毎昼食、毎夕食と本場のフランス料理をごちそうになりました。さすがに2日目、3日目となると私たちの方は次第にお腹が苦しくなってきましたが、ピコー先生はお歳にもかかわらず私たちと同じペースで食事を取っておられ、その健啖ぶりに驚きました。もちろん、手術見学もアレンジしていただき、リヨンの滞在を十分に満喫させていただきました。

 その後も幾度となく楽しい想い出を作っていただき、少しでも恩返しをしなければと思っていたところに突然の悲報が入り驚きました。2003年のAFJOの際、グルノーブルでまだまだお元気なお姿を見ていましただけに信じられない気持ちです。今でも優しい言葉をかけていただいたお声、嬉しいときのお顔などが想い出されます。日仏の整形外科の交流を続けていこうと陰になり日向になって努力されていたのを想い出しますと、この日仏整形外科学会をもり立てていくのがせめてもの恩返しになろうかと思い、この会の発展のためにさらに努力していかなければと心新たにいたしました。

第7回AFJO リヨンでの晩餐会 ピコー先生と
第10回日仏整形外科学会 弘前にて ピコー先生と(1999年10月1日)
To Page Top▲
-
Hommage à CHARLES PICAULT le 26 novembre 2004 Abbaye d'Ainay
Professeur J.P. CLARAC
(PDF File)
-
トップページに戻る