研修報告1
昭和大学藤が丘病院
柁原 俊久
9月:Pitié-Salpêtrière病院にて
平成15年度日仏整形外科交換研修生としての私の研修は平成15年9月2日より、Pitié-Salpêtrière病院で始まりました。
Pitié-Salpêtrière病院はパリの東寄り、13区の5区との境目にあり、Gare d’Austerlitz の真ん前にパリ一番の広大な敷地を有する病院群です。その歴史はルイ13世の時代に遡り、病院の入り口には『設立1613年』と書かれてあり、かのCharcotが教鞭を執り、フロイトが学んだことでも有名で、今でも神経内科の分野では総本山的な意味合いを持つようです。新しいところでは、サッカー選手のロナウド、日本の横綱貴乃花が膝の手術を受けており、そしてPrincess Dianaが命を落とされたあの事故の際に搬送された病院でもあります。5月に青森で開催されたAFJOの際に来日されたCatonné教授のお招きもあり、最初の研修先としてこの病院を選びました。
Pitiéの一日は、朝7:45 からのカンファレンスで始まります。主任教授こちらでいうところのChef de serviceであるSaillant教授、そしてCatonné教授、もう一人の教授資格者であるLazneck教授が一番前の列に座り、その前でInterneといわれる研修医たちがメモも見ずに前日の手術症例をよどみなくプレゼンしていきます。Saillant教授の「Bon, allez!」のかけ声にあわせて、次から次と症例が呈示されていきます。この合間にSaillant教授が病院での決定事項やパリ市内および各地で開かれる研修会等の紹介をされていました。
カンファレンスの後は8:30過ぎより手術が始まります。手術は4つの部屋に分かれて、脊椎・人工関節・足の外科・スポーツ、ほぼすべての分野の手術が行われていました。ただ、最初の2週間は手術予定のホワイトボードに書かれた略語が理解できず、スケジュールの把握に難渋しました。このうち人工股関節は、かのRobert Judet考案の牽引手術台を用いての仰臥位での前方進入法が用いられておりましたが、これをmini-incisionで行う要素を加味した方法が盛んに行われていました。インプラントに関しては、臼蓋側、大腿骨側ともにセメント、非セメントに限らず数種の機材が使われており、短期間の滞在においてその適応を理解するには至りませんでした。
9月の2週目は、Dr.Emile Letournelの名前を冠した骨盤骨折のハンズオンセミナーがパリで開かれこれに参加し、且つ9月の4週目はGlenoble で開催された第7回日仏整形外科合同会議に参加したため、実際にPitiéのスタッフとともに過ごす期間は大変限られたものとなり、残念ながらCatonné教授がSOFJOで供覧された成人に対する大腿骨遠位の骨切り術を見せて頂ける機会はありませんでしたが、フランス整形外科への導入編として大変貴重な実りある日々を送らせて頂きました。Catonné教授の腰巾着のように教授の後をついて回り、外来、手術室、病棟を渡り歩きましたが、彼のその多忙さには舌を巻きました。毎日ひっきりなしにフランス内外を問わず来客があり、私が滞在したその短い期間においてもNice , Lyon, Glenoble, San Franciscoに赴き、テレビ取材が3回。こうした多忙のなかにあっても、患者さんを含め訪れるすべてのひとに常に穏やかにとても紳士的に接せられる姿は、やはり尊敬に値しました。
10月~11月:Cochin病院 にて
9月1日より、Cochin病院での研修が始まりました。Cochinにはこの交換研修プログラムにより訪れたかたが多いと思いますが、以前日仏整形外科学会会長をされていたCourpied教授がChef de service を勤める Service Aと、腫瘍の大家であるTomeno 教授率いるService B の2つのunitからなり、私はCourpied教授のService Aで研修を行いました。A,Bあわせて年間800件近い人工関節を行っており、Le Point誌やLE FIGARO magazineのHospital of the yearのなどの特集号では年間人工関節手術件数がフランス No.1であることが毎年報じられています。
整形外科はPavillion OLLIER-MERLE D’AUBIGNEと称される独立した6階建ての建物のなかにあり、sous-sol (地階) に外来、rez-de-chaussee (日本で言う1階) に救命救急、1階に手術室、2階から4階までが整形外科病棟、5階が熱傷専門センターとなっており、Courpird教授のご配慮により9月から11月までの3ヶ月間、5階の熱傷センターの並びにある整形外科の当直室のような部屋を使わせて頂きました。
Cochin serviceAの一日もやはり朝7:45からのカンファレンスで始まります。前日の手術症例がinterneにより供覧されたあと、併設されている救急外来から緊急入院になった外傷例が医師と一緒に当直の実習をしたexterne と呼ばれる医学生により供覧されます。当直は教授以外のstuff doctor, interne, externe の3人体制で行われており、もちろん整形専属の麻酔科医も当直しており、骨折などはなるべくその日か次の日のうちに手術をしてしまうシステムになっているようです。Externeたちのプレゼンは、お世辞にも“淀みなく”とはいかないレベルでしたが、まだまだ顔に幼さの残るmonsieur, mademoiselle達が寝癖のついた頭を気にもせず教授にひとつひとつ報告する姿には、昨夜の苦労が忍ばれ好感がもてました。
カンファレンスが終わりしばしのコーヒータイムのあと、手術は8:30より始まります。5台の手術台をService A,B で効率よく分け合い、おのおのの手術台で一日4~5件の手術が組まれています。骨髄炎や人工関節後の感染例には感染例専用の手術室があり、病棟も非感染患者とは接触のない専用の病棟へ運ばれます。感染者と非感染者の居住空間は完全に峻別されており、施設の充実ぶりにはうらやましさを覚えました。
私はCourpied 教授、Mathieu教授のprimary THA,TKA, revision THA,TKAを主に見させて頂きました。Courpied教授の手術で私が最初に入れて頂いた症例は、Shanz osteotomy後の高位脱臼例でした。この症例をinterneと私を相手に、引き下ろし・骨切りを加えて3時間ほどで終わらせたときには、その無駄の無いメスさばきに感嘆しました。このほかにもDr. Vastel, Dr. Kinderman, Dr.Hamadouche, Dr. Luc Kerboullなど、多くの先生の手術に入れて頂きました。Cochinではご存じのとおり、original Charnley に若干の変更を加えたCharnley-Kerboull型を1970年台から使用し大幅な変更なく現在に至ってます。この長年培われた技巧と、蓄積された長期の臨床成績に触れることが、私の今回の研修における目的のひとつでした。両教授は言うに及ばず、スタッフの先生方においても多少のmodifyはあるものの、ほぼ同じ手技で手術を勧めていく姿には、歴史ある病院においてしっかりと技の伝承がなされていく姿を見せて頂いた気がします。毎年11月は1年間勤めたinterneとchef de clinique の交代の時期です。そのため10月の末には巣立っていくinterneに対し「Cochinのやりかたを忘れるな。」と言うがごとく、Mathieu教授が手術毎に何度も何度も繰り返し手技の要点を語っている姿には感銘を受けました。
毎週月曜日は、主にCourpied教授の外来を見学しました。股関節疾患では骨頭壊死、軽度の形成不全のものから、両側の高位脱臼、両側のankylose,多数回revision例など、もし日本で私の外来に来られたら頭を抱えてしまうような症例が、なんのよどみもなく次々と手術予定に組み込まれていきます。日に5~6件、多いときには週に20件以上のTHAをこなしている状態をもってしても手術予定はほぼ半年待ち。その症例数の多さはなんともうらやましい限りです。
毎週月曜日と水曜日の夕方5:30から、整形専属麻酔医、手術室看護士長を交えて実際に患者さんを診察しながらの術前カンファが開かれます。プレゼンはinterneが行いますが、そこはやはり議論好きのフランス人のこと。教授とstuffおよび麻酔医の間で激論が始まるとinterneを置き去りにして白熱していくことも多く、しばしば夜の8:00近くまで続いていました。
予定手術は月曜日から木曜日の間に組まれ、金曜日は朝からService A, B合同でexterneを交えての抄読会・症例検討会が開かれます。この際にService Bから提示されるものはやはりTomeno教授の専門とする腫瘍の症例が多く、腫瘍に接する機会が少なかった私には、大変勉強になりました。
おわりに
大橋先生よりメールにて、本学会の交換研修帰朝報告の依頼を頂き、改めて今フランスにおける自分の存在を認識しパソコンに向かいました。40歳上限という年齢制限ぎりぎりにして採用して頂いた交換研修のチャンスであり、且つこの年齢からも今後改めて海外に留学することは極めて困難と考え、私はこの交換研修を足がかりに1年間の在仏を決意し大学に申請しました。
3ヶ月の期間限定で“滞在”する客人に比べ、半年以上“居住”する人間に対し、フランスはある種厳しい顔を見せます。各種手続きは煩雑を極め、担当者の気分に振り回されているのではないかと思われることしばしば。しかし、それらのハードルのすべてを、私は数少ないフランス人の友人の助言とお手伝いによりクリアーし1年間の滞在許可証を獲得しました。
私は今、弓削大四郎先生からご紹介頂いた16区にある Clinique Jouvenet で Dr.Henri Judet のもと、Judet学派の手術を研修させて頂いております。その後は昨年の日整会の際に来日されたChristian Mazel 教授の御指導のもと、14区にあるInstitute Mutualiste Montsourisでの約半年間の研修を予定しています。
このような貴重な機会を与えてくださった日仏整形外科学会関係各位の先生方に深くお礼を申し上げるとともに、後に続かれる先生方に対し何かしらのお手伝いができればと、こころから思って居ります。
研修報告 2
昭和大学藤が丘病院
柁原 俊久
平成15年度の交換研修医に選んで頂きパリ13区のPitie-Salpetriere病院、14区のCochin病院で合計3ヶ月を過ごしたのち、私は弓削大四郎先生のご紹介によりパリ16区にあるClinique Jouvenetに3ヶ月、そして金沢で開かれた日整会の際に来日されこれもまた弓削先生のご紹介によりお会いした Christian Mazel教授のいらっしゃるパリ14区のInstitute Mutualiste Montsourisに5ヶ月間お世話になりました。1年間で単に複数の病院で研修させて頂いたということに留まらず、国立の医学部を有する大学病院 (Pitie-Salpetriere病院、Cochin病院)、完全なprivate hospital (Clinique Jouvenet)、そしてその中間に位置する共済組合系の大病院(Institute Mutualiste Montsouris)という3つの異なるカテゴリーの病院での生活を経験することができました。それは幸運にもいろいろな異なった立場で働くフランス人医師達の生活を垣間見られたことであり、また多くの海外からの研修医やフランスで働く多くの医療従事者達との接点を持つことが出来た大変貴重な経験と言えます。今回は大橋弘嗣先生にお願いして特別に紙面を割いて頂き寄稿致しました。昨年度の留学記と併せ、今後渡仏をお考えの方々のなにかの参考になればと思っております。
CLINIQUE JOUVENET
この病院は16区の閑静な住宅街の中にひっそりと佇むprivate hospitalで、主に整形外科と眼科の手術を行っています。整形外科は2つのセクションに分かれ、Henri Judet率いる関節外科・脊椎チームとPr. Gilbert, Pr. Le Viet率いる手の外科チームにより構成されています。 Docteur Henri Judetは、かのRobert Judet教授の甥にあたり、パリ郊外GarchesにあるRaymond-Pointcare病院にいらっしゃる Robert Judet教授の息子Tierry Judet教授とともにJudet学派の手術を正統に継承するフランス整形外科学会 (SOFCOT) の重鎮です (写真1)。
Robert Judet教授の影響が色濃く残るこの病院では、手術台から細かい手術器具にいたる全ての道具に独創的な工夫が施されており、外科医は原則的に手術を熟知した看護士を相手に一人で手術を行っています。手術の手洗いができる資格を持った看護士はここでは主に手術助手として筋鈎を引いて術者を助け、器械出しの看護士はおかず術者が器械出しも兼ねます。そのためには術者には当然器械に精通することが要求されます。たまにrevisionなどで人手が多く必要なときには事前に約束していたものと思われる医学生が筋鈎引きのバイトに来ている姿を見かけました。これらの点においては研修医を持たないprivate hospitalにおける医療の効率化への努力とその成果が感じ取れます。
私は主にDocteur Henri Judetについて股・膝関節の手術をみせて頂きましたが、private hospitalでありながらもこの時 SOFCOTでのコンピューター支援手術の試行病院に選ばれていたため、フランス全土から多くの見学者が来院されていました。この時期にはまだナビゲーション自体が不安定でキャリブレーションを採るのに多少時間がかかりその間待たされる医師達が少し気の毒のように思われましたが、私が滞在している間にもコンピューターのup-gradeが頻回になされ、徐々に安定したシステムになってきていました。多くの来客を迎えている Docteur Judetの部屋の隣では、最も若いドクターが一人で人工股関節の手術を行っており、手術室の壁に印を付け自分がそちらを向くと臼蓋の設置角が45°になるように準備し、「これが私のコンピューターナビゲーション。」と言い、軽くウインクしていました。
数々見せて頂いた手術の中で私が最も興味を持ったのが『牽引手術台で仰臥位で行う最小侵襲人工股関節置換術』です。この方法は既にこの病院のDocteur Tierry Siguierにより報告されておりますが、フランスでは一般的に普及している Judet式牽引手術台 (Judet table,こちらでは table orthopedique と呼ぶ) を用いて仰臥位前方アプローチで行う方法で、大腿筋膜張筋と縫工筋および大腿直筋の間を分けて進入し原則として如何なる筋肉も傷つけません。これは以前から Judet学派で行われていたHueterの前方展開を熟知したdocteur達が発展的に行った方法であり、ただ皮切のみを小さくすることにとらわれない真の意味での最小侵襲といえるものです。実は同様の方法を2003年9月にPitie Salpetriere病院で研修医が行っているのを見学したのですがこの際にはなかなかうまくいかず、隣で見ていた研修医の一人が「この方法をちゃんと見たいのなら、16区のClinique Jouvenetに行って見たほうがいいよ。」と耳打ちしてくれたのを覚えています。文字通り皮切は小さく外から眺めていたのでは正しく理解できないため、懇意にして頂いた Tierry Siguier氏の手術に何度か手洗いをして間近で見せて頂きました (写真2)。
この方法を導入するにあたり唯一最大の課題は、Judet table 無しには困難であること。この方法では脱臼時に股関節過伸展、過外旋位が必要になるのですが、この肢位はJudet table でなければ困難と思われます。加えて、この肢位をとる際の大腿神経損傷を回避するためにはこの方法を熟知し Judet tableを医師の指示どおりに操れる外回りの看護士の存在が不可欠となります。フランスで普及している本来のJudet tableはこのように手動で動かすものですが、これを電動にした牽引手術台がある業者を介して日本でも購入可能と聞いております。しかしこれが大変高価なものとなっており、Robert Judet教授の本意とはかけ離れてしまったものと言えましょう。
Clinique Jouvenet にお世話になっている間に私は今いる1区の apartmentに引っ越したのですが、新居がパリの中心にあるため外国の要人が来るたびに通行止めにあったりMetroが止まったり、はたまた例によってフランス名物の水回りに悪さに悩まされたりで私は何度か朝一番の手術に遅れて登院しました。そのたび毎にMonsieur Judetは「あれ、どうしたの。顔が見えないから日本に帰っちゃったのかと思ったよ。」と笑っておられましたが、一度「水回りがおかしくて、トイレの水が流れなくて。」と何気なく漏らしたところ、これがさあ大変。術者であるMonsieur Judetも麻酔のドクターも手洗い看護士も外回りもはたまたナビゲーターの技師までもが口々に
「それはまず、不動産屋に連絡だ。」「いや、その辺のapartmentだったら必ずconcierge(管理人)がいるはずだ。」「私の知り合いに評判の良い修理屋がいるよ。」「いや、簡単なものだったら BHVで部品を買ってきて自分で直せるって。」「いいかい、入居して間もないのだったら、クレームが効くからすぐお金を払っちゃだめだよ。」と、ひとしきり手術の手を止めて、不慣れな私を心底心配してパリで生きていく上での知恵を授けてくれました。パリの人間が冷たいなんて嘘です。江戸の長屋の人情のようなものを感じたひとときでした。
INSTITUTE MUTUALISTE MONTSOURIS
2004年3月から7月末までの5ヶ月弱、14区にあるInstitute Mutualiste Montsouris にて Christian Mazel教授のご指導を受けました (写真3)。この病院は古い町並みが続くパリの中では珍しく近代的な1999年建造の建物で、市民の憩いの場である Montsouris公園のほとりにあります。道路を隔てた向い側には、世界各国からの留学生が集う学園都市 Cite Universitaireがあり空間的にもひろびろとした余裕が感じられます。
渡仏直後の9月に挨拶にお伺いした際に教授が言われた「君が研修に来るからにはこの病院の中で君が行うことの全てに支障がないよう配慮する。」とのお約束どおり、早速院内職員用のバッジが渡され、これを付けている限り院内の全ての施設の往来が自由にでき、且つこのバッジがプリペイドカードになっており格安料金で院内のカフェやレストランが使用できました。加えて、常勤医師の部屋に私専用の椅子、机、そしてコンピューターまで容易して頂き、その言葉通りのご配慮に胸が熱くなりました。
この病院には、アルジェリアとシリアから勉強に来ている2人の研修医がおり、病院で生活していく上での細かい説明は全て彼等から受け、手術の合間には日本同様に馬鹿話をしたり。私は主に彼らのカンファの準備を手伝ったり、彼らが休む際の穴埋めを行ったりという立場でしたが、この2人が私のフランス生活初めての“collegue:同僚”といえます (写真4)。加えて、同室の常勤ドクターである脊椎外科医のPierre Antonietti, 足の外科を専攻するRichard Terrache氏らとは年齢が近いこともありすぐにうちとけ、フランス整形外科のかなり詳しいところまでを日々の生活の中で教えてもらうことができました。
この病院には整形外科の手術室が2つあり、それぞれ先人の名を冠して Salle Emile LETOUNELとSalle Raymond ROY-CAMILLEと命名されています。さすがに Robert Judet, Raymond Roy-Camilleの正統な後継者である Mazel教授ならではの命名です。ちなみに、Clinique Jouvenetではそれぞれの部屋にUtorilloやCezanneなどのフランスの画家の名前が付けられていました。
この2つの手術台をフルに稼働させて、Mazel教授を筆頭に脊椎外科医2名、関節外科医3名により月曜日から金曜日までひっきりなしに手術が行われます。さすがに教授の名声により多くの脊椎難治症例・脊椎腫瘍症例が集められてきますが、そればかりではなく関節外科、特に人工関節の症例も極めて多く、2004年度 Le Point誌が選ぶ病院ランキングでは人工関節の部門でフランス第3位に選ばれています。やはりここではMazel教授の脊椎の手術を中心に見せて頂きましたが、Cageを用いたInterbody fusionや多椎間固定は言うに及ばず、私と看護士1人を相手に多椎間固定のrevisionや側弯のInstrumentationなどを3~4時間で仕上げてしまう腕前には感嘆の声を漏らしました。人工股関節はやはり Judet学派の流れを汲むtable orthopediqueを用いた仰臥位での方法が行われ、独創的な方法にこだわるJudet学派を象徴してか臼蓋のrevisionには独自に考案したMontsouris plate なるplateを用いており、この他にも緩んでいないセメントカップを抜く方法や凹形リーマーを用いた臼蓋移植骨の採形法などのいろいろな工夫を惜しげもなく見せて貰いました。
Christian Mazel教授はまさに私のフランス生活における初めてのpatron (ボス) であり、professeur (先生) といえます。渡仏直後に挨拶にお伺いした時から、「まずはフランス語をしっかりマスターしなさい、それが研修の第一歩。そのためには映画の DVDを買ってまず英語で見てから繰り返しフランス語で見なさい。家ではなるべくニュースを流しておき、常にフランス語に耳を慣らしなさい。私はそうやって英語を覚えた。」との指導を頂き、教授のその極めて流暢な英語を聞くに当たり即座に納得し、早速帰りにFNACでアメリカ映画『STUART LITTLE ( 小さなネズミが人間の言葉を喋るやつです。) フランス語版』を買って帰りました。研修中も私が手術のテクニックに関してする質問にはすべて丁寧にフランス語もしくは英語で答えて下さいました。研修医の一人が不整脈で入院した期間には私一人を相手に何件も手術をなさいました。教授のお誘いによりポルトガルのポルトで開催された脊椎の国際学会にもお供させて頂きました。かなりの日本通で、「Toshi、こんど日本に帰ったら屏風の値段を調べてきてくれ。」と言われた時には少し面くらいました。そして最後に、私がこの病院を離れる週には「我々を手伝ってくれたお礼に」とフランス整形外科の集大成ATLAS DE CHIRURGIE ORTHOPEDIQUE 全3巻をプレゼントしてくださいました。これは私の一生の宝物となりました。
いろいろな意味でこの病院での5か月間は、私がフランスの医療界、もっと言えばフランス人の仲間としての枠の中に足を踏み入れていく上での極めて重要なstepであったと認識しております (写真5)。
Et apres
現在私は再びCochin病院のService Aに戻りJean-Pierre Courpied教授のもと、各国からの研修医達と助け合いながらちゃっかりcollegueの仲間入りを果たした感があります (写真6)。最近ではService BのTomeno教授、Anract教授にも顔を覚えて頂いたようで骨・軟部腫瘍の症例を覗きに行ったりもしています。来仏当時は、言葉の壁やあまりに違うシステムや価値観から強い疎外感に苛まれたこともありましたが、片言でもフランス語を使うように努めひとたびcollegueの片隅に加わってしますと、「仲間なんだからケチなことは言わないさ」的な太っ腹なフランス整形外科医達。こうした考えは、理髪外科を“外科学”に進歩させ、整形外科に発展させた子孫の中に、やや閉鎖的ともとれる中世ヨーロッパのギルド的なにおいを漂わせながら受け継がれています。地球の裏側にはアメリカに“oui, d’accord”と言わないもう一つの別の世界があることを身をもって知りました。そして、最終的にはこのフランスを頼りにしている多くの国があることも。日本に居ながらフランス整形外科の情報を得ることはやはり困難と思われます。フランス整形外科が知りたければ是非フランスに来て、彼らのなかで生活して、フランスでの生活を十分楽しんで、そして理解して下さい。後に続かれる先生方のフランス滞在が有意義なものに、そしてフランスでの生活を心から楽しんで頂けることを願ってやみません。
最後に、小林晶先生の御寄稿にあるFourcroyの言葉を引用して、
『Peu lire, beacoup voir, beacoup faire (あまり読むな、みることなすことを多く)。』