平成13年度 交換研修帰朝報告

2001年度日仏整形外科学会交換研修報告

千葉県済生会習志野病院
鳥飼 英久

 私は2001年9月から11月までの3ヶ月間に渡り、グルノーブル、ボルドー、ニースの大学病院を1ヶ月ずつ見学させて頂きました。これらの病院は脊椎疾患の手術治療、特に脊椎内視鏡視下手術を見学したいという私の希望に沿って現AFJO会長のP. Merloz教授自らが紹介して下さいました。

 研修先では、各教室において週に30~50例の定期手術を行っており、経験したことのない手術法も多数見ることができました。また手術見学と外来見学の両方をすることで、数多くの高度な手術と成績良好例を見ることができました。また少数ながらもarthrodesis後の感染、偽関節後の治療、高度腰椎すべり症や腰痛症に対する手術治療の難しさを再認識でき、それぞれの病院の滞在期間は限定されていましたが、非常によい勉強になりました。

 残念なのは、出発の1年前から日本でフランス語会話の勉強を開始しましたが、日常の簡単な会話だけでなく、上記の事柄などについてフランス語で議論ができれば、もっと深く理解できたのではないかと思われます。

 11月の初旬にはパリでフランス整形外科学会に参加しました。9月にお世話になったMerloz先生やグルノーブルの他の先生方とも再会しました。演題は、厳選されているためか、4日間で240題ほどとシンポジウムしかなく、脊椎の演題も20題しかありませんでした。そのうち6題が私が研修した病院からのものでした。興味深い所では、多数の人工椎間板置換術後の10年成績、bioabsorbable cageの演題がありました。シンポジウムでは、Merloz先生が座長となりnavigationとrobotecsなどのコンピュータ支援手術などの現状と未来が討論されていました。

 休日には市内の美術館やパリ、リヨン、リモージュ、カルカッソンヌ、プロバンスなどの地方を散策し、ヨーロッパ文化に触れ、大変楽しく過ごせました。フランスの整形外科さらにはフランス文化に触れられた実に素晴しい3ケ月の研修でした。

CHU de GRENOBLE, HOPITAL A. MICHALLON

 はじめに訪れたA. MICHALLON病院は、グルノーブル駅から東へ路面電車で10分程のイゼール川沿いに位置し、17階建ての2000床もある市の中核の総合病院でした。

 整形の病棟は80床あり、教室は主任教授のMerloz先生を含め8人の医員と5人の研修医のメンバーでした。手術は毎日あり、予定手術は、毎週30~40例あります。整形外科専用の手術室が3部屋あり、朝8時からフル稼働で手術が行われますが、骨折の患者さんが次々と入院するため、追加で頚部骨折なども毎日2~3例行われていました。脊椎の手術自体は、残念ながら神経症状のある患者さんは最近は脳外科に紹介される傾向があるためか減っているようでした。日本では3~4人の医師が手洗いして行う手術も、フランスでは、術者とinterneの2人でしていました。

 御存じのようにMerloz先生は、ナビゲーション手術の経験が豊富で、その結果は、Clin. Orthop.(1998)、Comp.Aided.Surg. (1998)、Chirurgie(1998)、SOFCOT(2001)の発表などに多数見られます。(写真1) また、computer-assisted surgeryのための研究所を持っていました。ナビゲーションシステムは、脊椎手術でPSの挿入を安全に行うのみならず、仙腸関節の固定、バイオプシー、ACLの至適ポイントの設定にも応用していました。手術でのPS挿入誤差は1MM以内とのことでした。PSでの位置の間違いはコンピュータの入力での人為的な入力ミスのみだそうです。

写真1

 実際にナビゲーションによる手術も見学させて頂きましたが、残念ながら短期間の見学のため多くは見ることができませんでした。しかしながら、2001年のSOFCOTに出席したところ、幸運にも、Merloz先生のcomputer-assisted surgeryの講演や同先生が座長となったcomputer-assisted surgeryの現況と今後の展望のシンポジウムを聴く事ができ、コンセプトは十分理解することができました。

 整形外来はどの病院でも紹介制でしたが、Merloz先生は外来では、5分ごとに3つの部屋を自ら移りながら迅速にこなしていました。

 外来では、側わん症、小児整形外科疾患、脚延長などの疾患を多く見学できました。平成8年に行かれた益田先生も紀行記に書かれていますが、外反膝の患者さんが多数来院していたのは印象的でした。

CHU de BORDEAUX

 次に訪れたBORDEAUX病院も2000床の大規模な病院で、周囲200km圏内の100万人を支えています。皆さんのイメージ通り、ボルドーは市内を出ると一面ぶどう畑です。休日にはサンテミリオンのワインツアーにも参加し、息抜きをすることができました。

 病棟は、16階建ての建物が中心にあり、3つ足になっていてPelligrin Tripodesという名で、他に小児科、産科、救急部など別棟がいくつもありました

 ここには、整形外科の教室がなんと3つあり、私がお世話になった内視鏡手術専門の教室の他に、脊椎専門のVital 教授の教室と関節外科専門の教室があるとのことでした。

 私は、内視鏡視下脊椎手術と肩の手術が専門というJ.C. Le Huec教授について外来と脊椎内視鏡手術を見学させて頂きました。主任教授はオリジナルの足関節の人工関節を持つChauveaux先生で、他にLe Huec教授、6人の医員、5人のinterneの構成でした。(写真2)

写真2

 Le Huec先生の外来では、患者さんは、基本的に手術希望で来るため、1時間に4人しか予約がありませんでした。外傷などの治療、ギプスなどの音で外がうるさいと (日本の診察では日常茶飯事でしょうか、反省しなくてはいけません。)、6階の外来から1階の別の診察室に移動するなどの配慮をして、患者さんに十分説明しながら診察をしていました。

 手術は毎日あり、朝7時半から始まります。肩、脊椎、足の手術が毎週40例程組まれていて、他に予定外の四肢の骨折、脊椎損傷の手術が追加されていきます。内視鏡を用いた、胸椎ヘルニア、側わん症の前方固定手術を毎週見せて頂きました。

 医員以上の医師は多数の症例の手術を経験していて、私からみると非常に手際よく手術をこなしていました。手術室の看護婦も整形外科専門で、かなり手術に慣れていて、脊椎内視鏡手術でも看護婦が問題なくカメラを持ったり、吸引したりしていました。外科医は手術にのみ集中でき、素晴しい環境でした。

 Le Huec教授の業績に少し触れたいと思います。Le Huec教授は現在までに鏡視視下の腹腔鏡による脊椎手術の経験が157例ありました。なお、胸腔鏡視下手術につき、2001年のSOFCOTの発表では、1995年から2000年までに68例の報告をしていました。しかし、大きな合併症 (血管、肺塞栓、感染など) はなく小侵襲で手術成績は開胸手術と同等ということでした。

 また、腰椎の人工椎間板の手術をdiscopathyに対して8年前から行っていて64例の経験があります。驚くべきことに、この治療を受けた患者さんの87%は満足しているということです。しかし、うち10例は人工椎間板のところが癒合しているにもかかわらず成績がよいと称するので、果たして人工椎間板のせいか疑わしいところもあります。また、教授によれば隣接椎間への影響はまだわからないそうです。サイズは日本人には大きいように思われました。

 手術では積極的にFluoroナビゲーションシステムを取り入れていました。このため、人工椎間板の設置時に透視を用いなくてよいため大変便利そうでした。また、人工関節置換術では、別のOrthopilotというナビゲーションシステムで骨切りをしていました。

 腰椎の人工椎間板置換術は、教授本人は、video assisted surgeryといっていましたが、腹腔鏡手術ではなく、腹膜外進入のminiALIFの手術でした。

 滞在中にLe Huec教授が主催の腰痛研究会がビアリッツという有名な保養地であり、参加させて頂きました。ボルドー地域でのMED, endoscopic spine surgeryの手術成績をまとめて聞くことができて勉強になりました。

 また、Vital 教授の所には、弘前大から油川先生が1年の予定で留学されていて、彼にVital先生を紹介して頂き、Vital 先生の手術も見学させて頂きました。Vital先生は英語が堪能でしたが、英語の論文をあまり書かれないので、不勉強な私は渡仏するまでは知りませんでした。手術日には、Vital先生は1人で1日4~5件の脊椎の除圧固定術とヘルニア摘出術をされていて非常に精力的でした。

CHU de NICE, HOPITAL de l’Archet 2

 11月1日より訪問した大学病院のARCHET2はニースの西の丘にありました。私は、毎日、丘を回旋しながら登るバスの中で投げ倒されそうになりながら市内の中心から通いました。フランスのバスは概して揺れが激しかったです。

 地上6階地下3階の9階建ての病院で、隣接するARCHET1とあわせて200~300床の中規模の病院でした。3年前までフランスの脊椎外傷で有名なArgenson先生が教授をされていました。

 常勤医師は4人で、ボアロー教授は肩の関節鏡視下上腕二頭筋腱のtenodesisとオリジナルのprothesis手術を専門としていました。

 手術は週に30症例ぐらいで、教授が専門としている肩の手術が多数を占めていました。教授は週に3日間、1日に20件近く、ひたすら、関節鏡視下の上腕二頭筋の固定、腱板の修復、acromyoplasty、Bankert lesionの修復、ミニオープンの腱板の修復、2~3例の人工肩関節置換術を行っていました。大学病院らしく週に1回はscientific meetingと称して勉強会をしていました。

 私がお世話になったのは、2番手のHovorka先生で、脊椎変性疾患を専門としていました。 (写真3)

写真3 Hovorka先生 (中央)

 Hovorka先生は私より1歳上の30才台の整形外科医ですが、2001年のフランス整形外科学会 (SOFCOT) でのMED 40例の発表や、頚椎の後方固定のinstrumentationのバイオメカの発表やArgenson先生と腰椎のPLFの生体材料の基礎と臨床研究の発表を行い活躍していました。また、Rev.Chir.Orthop.Reparatrice Appar.Mot. (2001)やEuro. Spine Journal(2000)に胸腔外、腹膜外アプローチによるvideo assisted spine surgeryの発表をしていて、周囲の病院にも胸腰椎の脊椎骨折後の前方固定のvideo assisted spine surgeryのため呼ばれていました。彼は胸腰移行部へのアプローチはわずか5センチの皮切で行っており、その侵襲の少なさに驚きました。

 彼の元で、1ヶ月の間に、多数の頚椎、腰椎の変性疾患の手術やvideo assisted spine surgery、MEDを数例見学させて頂きました。

手術の印象

 彼等の手術は、いずれの先生を見ていても素晴しく手際よいという印象でしたが、感動する中で、以下の考えさせられる例もありました。

1)less invasive surgeryのため、videoを用いることで、胸腰椎の前方固定を狭い皮切で行うと、操作も難しくなるため、視野も悪くなり、術者にとってかなり煩雑となる場合がありました。また、内視鏡用のinstumentの工夫がもう少し必要そうでした。(胸椎のdiscopathyの症例で、open surgery用のプレートを用いて前方固定行ったところ、プレートを固定するスクリューのガイドが対側に迷入し、再手術しすぐ抜去したが、あわや内臓損傷となる例がありました)

2)椎体間固定後の感染のため偽関節となり腰痛が残存した例

3)脳外科医がL4/5にALIF行い、腰痛がとれないため、L5/SのALIFを追加したが偽関節となり脱転し、後方固定しても前方固定が骨癒合せず、整形外科でPLFの再手術例し骨癒合した例 (これは、打込み式のケージでは、プレート固定も必要だとLe Huec教授が話されていました。)

4)高度な腰椎すべり症の固定術の後の骨癒合率の悪さ。偽関節は、すべりに限らず、脊椎固定術での偽関節例はかなり外来でみました。

5)computer-assisted surgery を使っても、稀ですが7%はPSの刺入位置がずれる可能性があり、周囲の大血管、脊髄、神経根を傷つける恐れもあります。

 これだけ臨床経験豊富な場合でも、また、どんなに手術技術、機械が進んでも、合併症が無くなる訳でないので、日々のテクニックの向上が大事であり、経験豊富になったとしても、安易な手術適応は慎むべきなのは当然と思われました。

外来の印象

 次に、脊椎疾患の外来について、いくつか印象に残ったことを述べたいと思います。外来患者さんは大概X線、MRI、CT、EMGまで他の診療所で受けてきていて、保存治療も十分されていることが基本なので、手術治療するか否かはその場で決まってしまいます。忙しいためか、ヘルニアは、紹介状と画像所見ではっきりしていれば診察なく手術の予定が決まってしまうのは行き過ぎと思われました。また、脊椎の写真をみて気になったのは、外来や手術の見学でも腰椎のエックス線では、腰椎椎間板ヘルニア以外、ほどんとの症例にinstrumentationが入っていて、偽関節とならなくても、外来の印象ではあまり患者の仕事復帰率はよくないようでした。MOBの症例はフォローが必要なためか多く見ました。腰痛治療はやはりクリアカットではないようでした。頚椎疾患では頚椎症が多く、OPLLは私の在仏中にはみませんでした。頚椎症、ヘルニアも疼痛のみで手術に至るケースが多く、手術適応が違うようです

 術前評価の病態の研究はついては、日本のほうが研究が盛んであり、基礎研究は圧倒的に日本の整形外科医の方が行っていると思います。

医師の体制について (苦しい研修医生活と余裕のある体制)

 何度も皆さんが述べていますが、フランスの整形外科医、研修医、麻酔科医の人達に聞いた話では、整形外科医になるには、一般医が2年間、interneが5年間、さらに助手として2年間の研修が必要だそうです。interneの間は基本給は月約14万円で、さらに当直代がはいりますが、病院によっては、月に10回整形外科の救急外来の当直があるそうです。当直のあとは、代休はなく次の朝から仕事していてかなり大変そうでした。そのためか、看護婦、麻酔科医のストだけでなく、研修医のストもありました。しかし、研修医は病棟運営には大事なスタッフであり、その証拠に研修医がいないため閉鎖している病棟もありました。

 整形外科しかわかりませんが、手術など入院が必要な治療は大学病院兼市民病院でしていて、腰痛、変形性関節症、リウマチなどの慢性疾患はリウマチ医や一般医の診療所がみているようです。というのも整形外科医の数が非常に制限されていることと関係があるようです。フランスにおいては一般外科、整形外科、産婦人科も含めた1年になれる医師の数が決められていて、グルノーブルでは年に5人、リヨンでは16人、ボルドーでは10~12人、パリでは60人だけだそうです。

 ボルドーにいる際、Le Huec先生にリウマチ医は手術しないのかと質問しましたら、「整形外科医以外には観血的な整形外科手術は許されてないし、すべきではない。」と自分の分野に対して高いレベルを維持している専門家としてのプライドを教えられました。

 フランスでは徹底して分業化していました。例えば各病院とも各科に麻酔医が3~4人と麻酔の補助の看護婦が2~3人ほどいて、その看護婦は腰椎麻酔や挿管から術中の管理もこなしていました。整形外科医は手術のみしていて、術前後の点滴、疼痛、全身管理なども麻酔科医が行っていました。これは、科によって方式が違うそうです。脊椎の手術ではどの病院でも、神経生理の医師が来て、SEP, MEPを行って安全になされていました。手術室で見ていると看護婦の数自体も日本よりも多い印象でした。病棟外来でも、術後の消毒や抜糸は看護婦がしており、問題があると担当医が呼ばれます。従って、整形外科医師の全体の印象としては、日本の一般的な整形外科医師がリハ医、リウマチ医、秘書のすべき書類書きの仕事までこなすのに比して、非常に専門性の高い生活でうらやましく思いました。

交流について

 留学中は、ニース以外では、研修医の寮に宿泊することができました。寮では、フランスのみでなく、ドイツ、スイス、ルーマニア、中国、カンボジア、ベトナム、アルジェリア、ベニンなど各国から研修医が来ていて生活していました。寮の食事の時には、各国のこれからを担う人達と、生活事情や医療事情など多岐にわたり話したり、その時は、何故か私は日本代表にされてしまい、いろいろと聞かれたりもしました。そして、時には、仲良くなった研修医に自宅にまで招いてもらい夜中まで楽しみました。(写真4) しかし、ある送別会のパーティーで、終わる気配がないのでいつまでやっているのかと聞いたところ、朝までと言われ仰天しました。この研修に参加できたおかげで観光旅行とは違う、外国で生活することの醍醐味を感じました。また、フランスという国の、このような多くの国から研修医を受け入れる許容の広さは本当に素晴しいことだと思いました。

写真4

最後に

 フランスの医療も当然年々変化していますから、例えば、4年前に寺門先生が、キモパパイン治療のため頚椎椎間板ヘルニアの症例が減少していると述べていましたが、現在は、フランスでは発売中止となったり、脊椎内視鏡視下手術も完全な内視鏡視下のみでなく、flexibleに一部を切開してやりやすく工夫したり、独自のinstrumentationを考案したり、miniALIFと併用するなど工夫がみられました。

 このような工夫や実践的な手技を見て勉強する場合には、臨床医学重視のフランス医学に学ぶ点は多いと思います。さらに実際に手技をみた上で、フランスと日本の持つ医療技術や知識、意見の交換をし合えることは、お互いにとって非常に有用であり、この日仏交換留学制度がますます発展することを願っています。

 渡仏中は、滞在中の病院から次の病院への連絡にはかなり苦労しましたが、Merloz教授は非常に優しく、いつも気を使って下さり、かつ援助して頂き、大変感謝しております。特に、忘れられないのは、グルノーブルでの最後の日に食事に誘って頂いたうえ、Merloz先生の著書を下さいました。四肢の横断面と創外固定とを対比した解剖学書でした。その中に、A mon ami TORIKAIと書いて渡して下さったことは忘れない思い出です。(写真5)

 最後になりますが、この場を借りて、改めて、日仏整形外科学会の皆様にお礼申し上げます。

 また、本留学に際して推薦状を書いてくださいました、守屋教授、和田先生、大変ご迷惑をおかけしました済生会病院の諸先生方には改めて深謝申し上げます。

写真5

2001年度フランス短期留学を終えて

九州大学整形外科
久我 尚之

 子供の頃の夢は宇宙飛行士だった。10才過ぎには船乗りかパイロットに憧れ、中学時代にはアインシュタインのような物理学者を目指した。夢は全て果たせなかったが、それらに共通していたのは未知なる物への好奇心だった。医者になってもこの性分は変わらず、海外の社会や医療現場を覗いてみたいと思っていたが、運良く願い叶い、交換留学生として2001年春、渡仏が決まった。

 フランスでの研修地はナントとパリだった。ナントは古くはブルターニュ公国の首都として栄え、現在は人口25万の中都市である。市の中心部に位置する市立病院は医学部と併設し、市最大の規模を誇る。その整形外科を率いるのは、フランスで脊椎の勉強がしたいという私の希望に応えてコタローダ教授が紹介してくれたパスーチ教授である。彼はコトレル・デュブセ・オリゾン(CDH)を用いた側彎症の治療を専門としていたが、人工骨の開発にも力を入れており、hydroxyapatiteの小片を骨髄液に浸して自家骨に代用し、優れた骨癒合率を得ていた。また彼は人格的にも寛容な人物で、やはり脊椎の勉強にきているエジプト人留学生にもメスを持たせ、pedicle screwの入れ方などを丁寧に教えていたのが印象に残った。パリではクルピエ教授の好意によりコシャン病院に滞在し、パリに隣接するクリシーのボージョン病院を訪ねた。穏やかなドビュルジュ教授と対照的に、若くactiveなギギ教授が脊椎疾患のチーフである。彼もまたCDHを用いた変形矯正や変性疾患のみならず、頚椎の転移性腫瘍といった難しい手術も積極的にこなしている。

 彼等は皆、相当な技量の持ち主で、強固なCDHを用いて変形矯正をすばやく確実に行う。但し、CDHはあくまでも大きくて硬いフランス人の脊椎にbest matchしたもので、我々日本人の貧弱で脆い脊椎にはoversizeで、その頑丈さ故にかえって骨折の危険性もあるかもしれないと思った。それと私がいつも感じていたのは、確かに使いやすいpolyaxial screwを備えたCDHをもってすれば、胸椎から仙椎に至るlong segmental fusionによりこれまで不可能と思われていたような変形矯正も可能であるが、それが果たして人体にとって正しい方法なのか、ということである。つまり、高齢者の脊椎変形は何らかの代償として徐々に起こってきたものであって、その変形を持ちながらもあるバランスのもとでそれなりの脊椎として機能しているのではないだろうか。そこで急激な変形矯正を行うことは、また新たなバランスを構築することになり、もしもそれに対応できなければ、再び元に戻ろうとする力がたとえ高齢者でも相当に働くのではないだろうか。少なからぬrodやhookの破損例をみながらそんな事を考えていた。中高齢者の変形を持つ脊椎には、その変形の増悪が予想されるものには、変形の一番の原因となっているものを探り出し、できるだけ限局した治療でその変形をくい止め、あるいはバランスを崩さぬ様に配慮しながら安定した状態へ導く、そういった方向性はないものかと考える。つまり、いやいやして道を外れそうな子供 (脊椎) の手足を無理矢理縛り箱に閉じ込めるよりも、道を外れそうになったらそっちじゃないよと優しく道の方へ押し戻してやって、後は子供の行き先に任せる、そんな事を手術室の窓から外の風景を見ながら考えもした。

 フランスの景色は美しい。パリの都会的な喧騒と比べ、ナントは静かで緑が多い。私の宿泊施設は街外れにあり、芝生が張られた中庭にはいろんな花や樹木が植えられ、少し離れた所には自然のままの林の多く残っている。この美しい景色を眺めながら私はいつも、日本の峠に咲く満開の桜、梅雨の頃の草いきれのむせるにおい、夏山を流れる小川のせせらぎ、滝の音を感じ、そして見ていた。こんなに日本に郷愁を覚えたのは生まれて初めてであった。フランスも美しいが日本の四季の変化、自然のうつろい、人と自然の共存はもっと美しく、日本人の心のよりどころであることに今回初めて気付いた。近年これらが失われつつある事はとても嘆かわしく、日本の議員達も海外視察で馳走を食べ、観光をした後はぜひこのことを感じ取り、自然環境破壊を招く土木事業を少しでも減らすべく努力して欲しいと願うばかりである。

 自然も人体もいったん壊すとなかなか容易に戻らない。壊す場合は必然性のある時のみ、その後の影響がコントロールできる範囲でというのはいわずもがなの常識である。

 今回のフランス留学で学んだことは、まだまだ整形外科は発展途上段階であるということである。より完成されたものを求め一人一人が各々の道を切り拓いている。道は一つではない。ただがむしゃらに進むのではなく、試行錯誤しながらより安全で確かな道を見つけていって欲しい。そのための犠牲は最小限におさえながら。

 最後になったが既述の先生方以外にも瀬本助教授をはじめSOFJO、AFJOの会員の皆様方に厚く御礼を申し上げ、報告を締めくくる。

パスーチ教授
ギギ教授