Bollini先生来日顛末記

大阪医科大学 整形外科教室
藤原憲太

 第11回の日仏整形外科学会のBollini先生の講演は紆余曲折なく、すんなり決まったと記憶している。 なぜならば、Bollini先生は、瀬本先生の渡仏時代の旧友でもあり、私が2001年にマルセイユに留学していた時に大変お世話になった先生でもあったからだ。もちろん学問も手術もとび抜けており、特に先天性側彎症のBabyCDを使った手術は4,5回見せていただいたが全然オリエンテーションがつかないうちにあっという間に終わってしまい、神業のように見えたものだ。(第一助手のシルバン君もついていけてなかったような・・) で、講演していただく内容も、すんなり先天性側彎症の手術的治療について話していただこうということになった。

 はじめてメイルで講演依頼してから、返事がくるまでは緊張した。ちょうど時期がSOFCOTやEUROSPINEが重なる時期でもあり、けんもほろろに断られることを覚悟していたが杞憂に終わった。

 話は変わるが、留学で一番もめてしまうし、悲しい気持ちになるのは宿泊問題である。私はモンペリエ・マルセイユ・パリを転々としたが、唯一事前に宿舎をきちんと準備してくれていたのがBollini先生だった。日本人である私はそんなことに非常に恩義を感じてしまうのである。ということで日本での宿泊はキチンとコーディネートしようと頑張った (つもり)。

 来日されるまで何回かメールをやりとりして、奥様同伴で来られること、いろんなところを見て回るよくばりな日本人的ツアーよりも、京都に腰を据えて近隣をゆっくり見て回り日本の文化に触れたいというなんとも高雅な希望があることがわかった。

 いよいよ来日当日。もともとたいして喋れないフランス語が通じるかしらと心配しながら関空に迎えにいった。まったく変わらぬ温顔に接してほっとした。そこから神戸に向かったのだが、やはり日本という国は、初めての異邦人にはチョンマゲと現実のハイテク工業国といったところにギャップがあるようで、湾岸線沿いの工業地帯に非常に驚いていた。

 車内での質問は以前案内したオーストリアからの交換留学生とまったく同じ質問なので答え易かった。必ず聞かれるのが人口 (大きい数字をフランス語できちんと答えるってなかなか難しい。) 次は公害問題。で物価。食事といったところか。

 奥様はウイットに溢れた方だった。日本通の友人から色々と情報を仕入れてこられており、話の途中でどうしても日本で食べたい魚があるということになった。単語が理解できず、秋刀魚とか鯛ぐらいかなとあたりをつけて喋っていてもどうもかみ合わない。ふくらんで毒がある魚と説明されフグだとわかった。なんでもフランスでは調理が禁止?されているらしい。あわててその晩の食事をお願いしている料理屋の板さんに電話して無理を聞いてもらった。初めての日本食の印象は、繊細でアーテスティックといった表現だったか、とにかくいたく気に入った様子だった。淡白なフグの味わいも理解できている様子。さすが美食大国フランス。

 次の日の講演は、参加された先生方にはお分かりだと思うが、隠れた巨人ここにありといった素晴らしい内容だった。やはりフランス整形外科は奥深く侮れないと感じ、もう一度留学したくなった。懇親会では、今期の交換留学でマルセイユに留学する松尾先生のご家族にフランス生活のアドバイスをしていただいた。今頃は楽しく過ごされていることでしょう。

 翌日は神戸の中華街で会食の後で、小野村会長と菊花展を鑑賞した。なるほど日本的である。こんな機会でもないとなかなかゆっくりと観賞できないものである。眼福でした。

 その後は最終目的地である京都に向かった。ぜひ畳の生活を体験していただこうと日本旅館での滞在を二泊設定した。気に入ってもらえたのだろうか。

 文化の日には三千院を案内した。山道に近い遊歩道を散策中しながら、毎年参加している国境なき医師団でのボランティア活動や奥様のパリでの英語ガイド時代の話などに聞かせていただいた。その夜は瀬本先生ご推薦の店でフランス料理を皆で楽しんだ。少し意外な面持ちで、美味しいを連発されていた。日本人の食に対するこだわりについて少しわかってこられたようだ。(私見だが世界でも各国の料理がすべて高いレベルで食べれる国は日本だけだと思う。)

 あいにく日本の側彎症学会と重なってしまい夫妻とはこの日でお別れであったが、大変名残惜しい気持ちになった。去っていくタクシーにいつまでも手を振ってしまった。またお会いしたい気持ちにさせるご夫婦だった。まてよ、私がフランスへ行けばいいのか!?