トップページに戻る
故 菅野卓郎先生を偲んで
-
 追悼文
菅野先生の写真1 菅野先生の写真2
-
菅野卓郎先生への追悼七川歓次

 菅野先生は人当たりがソフトで、控え目ではあるが、ご自分の意見があって、必要な時にははっきり主張されるという申し分のない方であった。小林晶先生と三人で日仏整形外科学会の設立を図り、その運営に携わるようになって、私は本当に良い人に巡り合って良かったと思っていた。私にとっては、いつまでも日仏整形外科学会のために活動を続けて戴きたい、かけがえのない人であった。

 菅野先生は日仏整形外科交流の草わけで、戦後いち早く(1950年)フランス北部のリール市の大学病院に3年間留学し、その後も(1965年)パリ大学に1年間留学して、フランスの整形外科を身につけた人で、フランス通であることはいうまでもないが、そのような素振りは見られなかった。昭和31年に出たわが国唯一の日仏医学辞典の編纂に携わり、東京の日仏医科会で、整形外科関係のフランス語の講師をしたりしていたし、良いフランス語が話せるので、日仏のパーティーでは機会ある毎に私は菅野先生に挨拶をしてもらうようにしていた。日本語が上手でないと外国語もうまくならないという人がいるが、菅野先生は長らく慶応大学整形外科の同窓会会長をしていて、矢部教授の整形外科学会会長の招宴の席で、菅野先生のされた挨拶が余りにもよく出来ていたので驚いたことがあるが、その時、成程と思ったものである。

 第4回の日仏整形外科合同会議の議長を菅野先生にして戴いた。その会にはフランスから30名程参加していたが、矢部教授のお力添えもあり、格式のある、しかもうちとけた会になった。晩餐会の席でピコー教授が日本の整形外科に学ぶところが多いと力を込めて言っていたので強く印象に残っている。菅野先生の人柄そのままの会ではなかったかと思っている。

 私が阪大の整形外科に在籍中、当時フランス整形外科に君臨していたメルルドヴィネ教授が日整会の招きで来日したさい、東京での学会後菅野先生が同行されて、大阪での集会にこられたことがある。その時私は2人を吉兆にお呼びして一緒に食事をした。手の込んだ料理が次々と出てくるのを、何故か菅野先生は大へんご不満で、どうしてもっとシンプルな料理を出せないのかときつい口調でいっていたのを覚えている。私は東京の人にはそういう風に見えるのかと思ったが、今からみれば、当時の年配のフランス人と工夫をこらした日本料理とはアンバランスで、菅野先生はいち早くそれに気付いたのかもしれない。それより少し前、パリーでの私の先生であるリウマチ学のコスト教授が大阪での医学会総会に招かれてこられた時、同じ料理屋に案内したが、コスト先生は料理を全く口にしなかったくらいであった。

 菅野先生はリウマチ外科の領域でも日本の先達で、その技量と経験は他に抜きん出ていた。彼が長年勤めていた川崎市立病院には慶応大学の内科のリウマチのエキスパートが居たこともあり、集まった豊富な患者が彼の経験を広く深いものにしたと思われる。ずっと後に私の同僚のアモール教授が東京のリウマチ学会に来た時も勝正孝先生とともに菅野先生にお世話になり、夕食に招待して戴いた。わが国のリウマチの内科と外科の第一級の先生に歓迎してもらって、私は面目をほどこすことができた。

 菅野先生が会合に同席すると、落ち着いた雰囲気になり、厚みが増した感じがする。彼の協力によって、日仏の整形外科学会の順調な発展が実現できたものと深く感謝している。

 昨年の春から体調をくずし、本年初めに入院されたが、見舞いの手紙に元気そうな返事を戴いて安心していたのに、亡くなられた通知をもらって驚いた。8月1日の葬儀ミサに参列して彼が幼児からカトリックの信徒であることを初めて知った。正に彼に相応しい葬儀で、神父さんの話しを聞きながら、私は大きく納得するものがあった。柩におさまった菅野先生は、誰もその時はおだやかに見えるが、一そうおだやかで、品格を保っているように見えた。

-
菅野卓郎先生を偲ぶ小野村 敏信

 菅野卓郎先生がご逝去になり、本当に淋しい思いである。ついこの間まで御一緒していたと思うのに。

 もう40年ほども前のことになるが、当時まだ困難な治療対象であった脊椎リウマチの患者さんに対して、菅野先生が後頭骨頚椎間固定を行なわれたご発表をお聞きしたのが、私が先生を知った最初であった。その先生と親しいおつき合いをさせて頂くようになったのは、10数年前に私が日仏整形外科学会に加わるようになってからである。

 菅野先生を重要なfounderの一人として発足した日仏整形外科学会SOFJOは今日まで順調に経過してきていると言えるが、勿論その途上にはいろいろと難しい問題も少なくなかった。そのようなとき、菅野先生はご自分の考えを声高におっしゃるというタイプの方ではなかったが、悩ましい問題が起こるたびに適確な当をえたご意見を述べられ、方針を決める上で大きな力になってこられた。会の運営そのものについては勿論であるが、日仏間の折衝に関して、また交換研修や共同研究を進める上で、菅野先生の寄与されたことは大きかった。

 これまで年に一度大阪で交換研修希望者の面接が行なわれ、そのあと役員の懇談会がもたれてきたが、この会は日仏整形外科学会の諸問題を話し合い、会のイメージを確かめる貴重な機会となってきた。そのとき菅野先生は「一日早くきて京都を少し見物してきた」というようなことをよく言っておられたが、これも心と行動にいつも余裕のある先生のお人柄を示すものであろう。

 日仏整形外科合同会議AFJOについては、1996年に菅野先生が主催され東京で開かれた第4回の会議のことが思い出される。会が素晴らしかったことに菅野先生の御企画ご努力があったことは申すまでもないが、慶応大学の整形外科学教室の皆さんが心からバックアップしておられるようにお見受けした。大学を離れて長く経った方がこのような国際学会を主催されるのは容易なことではないと思うが、このようなご協力があったことは菅野先生が慶応大学整形外科という大所帯のなかでいかに重要な役割を果たされ、敬愛されておられたかを示すものであり、参加者の一人として印象が深かった。

 1998年のリヨン、2001年の大阪と、AFJOの会合でもご一緒に働かせていただき、大事な役割を果たされた菅野先生のご病気のことをお聞きしたのは一昨年暮れのことであり、そして昨年、日仏整形外科学会としていつまでも居てほしかった大事な方の残念なお知らせを聞くこととなった。菅野卓郎先生のこれまでの本会へのご貢献と、私にいただいたご厚誼に心から感謝申し上げるとともに、ご冥福をお祈りするものである。

-
菅野卓郎先生を偲んで大阪医科大学整形外科
瀬本喜啓

 「少しの間、連絡が取れなくなります」そうおっしゃって菅野先生が電話を切られたのは、平成13年のクリスマスが終わった頃でした。その年の5月に大阪で開催された第6回AFJOの時には、まったく病気のそぶりもなくお元気でした。また、その後の7月末におこなわれた日仏交換研修医の面接の時も、暑いさなか選考のためにご来阪頂きました。しばらく連絡がなく、年の暮れに、「来年早々に手術をするので、少しの間電話でもメールでも連絡が取れなくなるから承知おきください」とメールを頂きました。翌年の2月末に久しぶりにメールをいただいた時には、「手術はせずに化学療法を受けている」とのことでした。お見舞いのお花をお送りし、メールで日仏整形外科学会の近況をお知らせしました。少しして入院先の大槻外科病院の先生にお電話しましたところ、入院中も外来をされているとのことで、だいぶよくなられたのだなと安心していました。一時退院され自宅で療養されておられた6月ごろ、日仏交換研修医の面接の件でお電話をしましたが、「胸水がたまってうまく話せない。明日再入院する。」とおっしゃって、一言一言息をついで話しておられたので気になり、一度上京の際、お見舞いに行こうと思っていました。丁度所用で東京に行った平成14年7月30日の昼、大槻外科病院の場所を訪ねるため病院に電話をしたところ、その日の朝にお亡くなりになったとのことでした。もう少し早くお見舞いに行けばお目にかかれたのにと、大変悔やみました。お葬式は、先生がカトリックの信者なので教会で行われました。先生のお人柄が偲ばれる、淡々としたかつ心安らかなミサでした。まさしく天に召されたという表現がぴったりのお葬式でした。しかし、祭壇下に安置された微笑を浮かべられた先生のお顔を見たときには、思わず涙が出てしまいました。受付をされていた大槻外科病院の先生方や関係者の方々からも、先生が生前いかに慕われておられか、またいかに大事にされておられたかがよくわかりました。

 先生は暖かで和やかなお人柄でした。また博識で、フランスの医学について多くのことを教えていただきました。AFJOのときにはいつも流暢なフランス語で挨拶され、特に第4回のAFJOでは母校の慶応大学医学部整形外科学教室のバックアップのもと会長を務められ、フランスから来日した多くの参加者からも忘れることのできない会であったと感謝を受けておられました。

 日仏整形外科学会にとって先生がおられなくなったことは大きな痛手です。しかし、先生の日仏整形外科学会に注いでいただいた情熱を引き継いで、本会をさらに発展させることが先生への恩返しになると思っています。どうか、安らかにお休みください。

-
菅野卓郎先生を偲んで大阪市立大学大学院医学研究科 整形外科
大橋弘嗣

 菅野卓郎先生がご逝去され、日仏整形外科学会に大きな穴が空いたように感じています。

 私がこの学会のお手伝いをさせていただくようになった時には、菅野先生はすでに役員としておられました。何ら面識もないまま、先生の温厚で優しいご性格に甘えておつきあいさせて頂きましたので、徐々に先生の偉大さに気づくようになり、今さらながら大変失礼なことをしたのではないかと赤面の思いをしています。

 先生は本当に周囲によく気を配られ、また本当によくTPOを分かっておられ、私はいつも感心しておりました。一番印象に残っている思い出は、1998年のリヨンでの第5回AFJOの夕食会でされたお礼のご挨拶です。リヨンの旧市街の有名なレストランで学会主催の夕食会がありました。丸テーブルにフランス人と日本人が交じってすわり、典型的なフランス料理のおもてなしを受けた後、菅野先生が日本側代表でお礼のご挨拶をされました。フランス語であり、詳しい内容は覚えていませんが、フランス側の会長はじめ役員の先生方へのお礼から始まり、学会に関わられた方々、そしてお店の人にまでコメントとご挨拶をされ、その日の夕食会がいっそう盛り上がったように感じました。

 先生がご病気であることを聞き、ご快復を願っておりましたが、あまりに早くご逝去の連絡をいただき、寂しく思っております。先生のぬけられた穴を少しでも埋められるよう日仏整形外科学会の発展のために尽力することを誓い、先生のご冥福をお祈りいたします。

-
菅野卓郎先生を偲ぶ
山口県立中央病院名誉院長
フランス外科学士院会員
フランス整形災害外科学会名誉会員
弓削大四郎

 今年7月30日逝去された畏友菅野卓郎さんの御霊に心から追悼の意を表します。

 フランスでは医師同士が「先生」と呼び合う習慣がないので「さん」と呼ぶことにします。

 菅野さんは私のフランス語の教師であり1965年のフランス政府招聘技術給費生としてパリ大学医学部教育病院であるCochin病院のMerle d'Aubigné教授の許で共にフランス整形外科を学んだ仲でもあります。

 私は長崎医科大学の学生時代からフランス留学を夢見てフランス人神父さんからフランス語を学び始めて15年経ってフランス政府招聘給費留学生の選抜試験に挑戦したのですが、1962年山口県立中央病院に転勤してからは当時東京日仏学院が実施していた「フランス医学通信講座」で菅野さんの添削を受けていましたのでお名前は存知上げていましたが、1965年3月東京日仏学院での留学生のコンクールで初めて菅野さんに出会った時は驚きました。

 二人共にパスして念願のフランス留学ができたのですが、菅野さんにとっては二度目の留学でした。1950年カトリック留学生として遠藤周作氏らと渡仏してLilleとParisの両大学でフランス整形外科を研修されていて、1965年の私の留学時に非常に色々貴重な教示を与えてもらいましたし、約3ヶ月間パリ14区のJacques Mawas のappartementで自炊しながら生活を共にしましたが、フランス政府からの毎月の給付の750フラン(当時1フラン:75円)では生活が苦しいので彼は4ヶ月目にMerle d'Aubignéの弟子でAix-les-Bain でClinique privéeを開業して盛業だった Jean-Jaques Herbertの病院に Postel教授の世話で勤務されるようになりました。Aix-les-Bain は温泉地でリュウマチ・センターがありましたので、1966年2月に私も訪問して1週間滞在して午前6時半から始まる J.J.Herbert の多忙な手術に立ち会っている菅野さんの姿を驚嘆して見学したのを覚えてます。私より早く帰国されて、私が帰国した時には市立川崎病院の整形外科部長で勤務されていました。

 フランスでは昔からリュウマチ科が存在していて、疼痛性疾患の患者は先ずそこで受診して手術の適応のある患者は整形外科に紹介されるのが常道でした。Coxarthrose, Gonarthroseの治療は両科の合同 conférenceで討議されて決定されていました。痛風を整形外科が治療するのは、痛風結節が認められる患者のみでした。私はこれが正しい方向と思っています。腰痛患者もヘルニアの疑いのある時リュウマチ科から整形外科に紹介されて来ました。

 1967年名古屋で開催された日本整形外科学会に私の仲介でMerle d'Aubigné教授の来日が実現して「変股症の手術適応」に就いて特別講演され、菅野さんと10日間行動を共にして京都・奈良・日光などを三人で観光したあと最後は慶應大学で特別講演されて満足して帰国されて二人でホッとしたことを昨日の事のように思い出されます。

 菅野さんは温厚で極めて親切な方で、熱心なカトリック信徒で最もフランス語のできる整形外科医でした。私の2冊の翻訳本「小児外科」と「運動器の外傷診断学」出版の際に多大のご支援を戴きました。

 菅野さんはフランスでの所謂 Grand Patronを持たれなかったので SO.F.C.O.T.ではMembre associé にしかなれなかったことが惜しまれます。SO.F.J.O.の創設にあたっては、私に役員への参加を再三に渡って勧誘されましたが、私には別の理念があったため彼のご好意を受けることができず申し訳なかったと思っています。

 ここに、生前のご厚情を感謝し心からご冥福をお祈りします。

菅野先生写真
左:講演しているMerle d'Aubign 教授を通訳している菅野先生。
中:1967年名古屋の日整会でMerle d'Aubign 教授、菅野先生、弓削先生。
右:Merle d'Aubign 教授の「変股症に対する手術術式」のdiapを説明している菅野先生。
-
菅野卓郎先生への弔辞シャルル・ピコー(訳 山下郁子)
Hommage au Docteur Takuro Sugano.

Au nom de tous les Membres de l'Association France Japon d'Orthopédie, et en mon nom propre, cet eloge est adressé solennellement et sincèrement au Docteur Takuro Sugano, mort le 30 juillet 2002.

Le Docteur Takuro Sugano a été une personnalité importante au Japon, sur le plan national, dans le domaine de la chirurgie orthopédique, et dans son action pour la francophonie.

Participant à la bonne marche de la SOFJO et l'AFJO, il a fortement contribué à la creation et à l'amélioration constante des relations culturelles, scientifiques et amicales entre le Japon et la France.

Chacun a pu reconnaître son caractère honête et déterminé qui était soutenu par une immense culture et une grande compétence, qu'il a toujours mises au service de tous.

Il y avait aussi en lui un fait remarquable : il montrait, très discrètement, une si grande tendresse pour les personnes et les choses de la nature (il avait un grand talent de peintre) et une si grande compréhension instinctive qu'il obtenait l'estime et l'amitié de tous.

Avec la plus grande tristesse, nous regrettons sa disparition, en affirmant qu'il resteta dans notre mémoire comme un exemple remarquable à la fois pour ses activités professionnelles et pour ses qualitiés de véritable ami que nous n'oublierons pas.

Charles Picault.

*

 日仏合同会議の全てのメンバー及び私個人より、昨年7月30日に他界されました菅野卓郎先生へ慎んで心より哀悼の意を表します。

 菅野卓郎先生は、日本国内の整形外科の分野はもとより、フランス語圏の国々との交流においても、貴重な方でした。

 日仏整形外科学会と日仏整形外科合同会議の発展にご尽力なされ、日仏の文化、科学交流、及び友好関係の基礎を作られ、その絶えまない発展に多大な貢献をなさいました。

 深い教養と傑出した能力により培われた、誰もが認める誠実で果敢なお人柄で、皆のために常にご尽力下さいました。

 また、先生がすばらしかったのは、人や自然の風物への深い愛情や本能的な理解をお持ちで(絵画の才が大変おありになりました)、それを大変控えめに示され、皆が尊敬し好意を抱いておりました。

 先生が他界され深い悲しみで一杯でありますが、彼は、仕事の面においても、真の友人としても、すばらしい模範として私達の記憶に残り、私達は先生を忘れることはないでしょう。

-
トップページに戻る